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建物やインフラの老朽化

    最近、日比谷や大手町では古いビルの建て替えが進んでいます。おそらく日本全国で高度成長期に建てたビルの更新期が一斉に来ているのでしょう。鉄道も高速道路もかなり老朽化し、大きな地震が来たら壊れてしまう可能性も高いのではないかと思ってしまいます。

  50~60年経った建物について、建て替えるのか、修繕して長く使うのかは、大きな判断です。たとえば、島本パートナーズのオフィスのある帝国ホテルの隣の日生劇場は何回も修繕しながら使っていて、風情のある建物が顕在です。一方、その隣にあった旧三井銀行の本店は建て替えとなり、その隣の三信ビルと統合した敷地に、新たな高層ビル「ミッドタウン日比谷」がつくられました。そうやって、日比谷から丸の内、大手町など東京駅周辺のビルの景色を見ていくと、建て替えか、修繕かで、両極端に分かれます。

  大手町はすべて建て替える方向をとり、今はほぼ終わりに近づいています。古いビルから新設ビルにみんなが順番に移り、人やテナントの流出をうまく回避しました。しかし、ほかの場所でも同じようにスムーズに建て替えが行なわれるかどうかは疑問です。特に、日本全体で見れば、すべての修繕はできず、あきらめざるを得ない地域も出てくるはずです。たとえば、人数が一定以下となり、最低限の生産能力を維持できない集落は、移住してもらうような政策が必要になるでしょう。これは痛みを伴う改革で、身を削るような話なのでやりにくいのですが、企業も、会社も、自治体も、政府も何とかしてこれをやりきらないと、国全体が沈む結果になると思います。

 


 

報酬の額よりも、成果に注目すべき

   昨年末に、産業革新投資機構の田中正明社長をはじめとする取締役全員が辞任するニュースが報じられました。経営陣の報酬案について、経済産業省は一度OKを出して承認していたのに、官邸から高額ではないかと指摘されて、白紙撤回することになったようです。しかも、こうしたトラブルはたいてい裏から裏へと処理されるのですが、今回は表沙汰になってしまいました。玄人筋から見れば、これは完全に官庁の敗北です。取締役会で正式に決まったことを、親会社とはいえ政府が勝手にひっくり返したという事例になるからです。人材面では、海外からは、法律的にも労働慣行的にもカントリーリスクの高い国というレッテルが貼られても仕方ありません。少なくとも、日本で政府系機関のファンドをつくろうとしても、あとで政治の意向でどうひっくり返されるかわからないから、おいそれと参加するものではないという見方が固定され、優秀なプロ人材(外国人も)を今後雇いにくくなったことは間違いないでしょう。

  残念ながら、官邸幹部には本当にグローバルな背景を持った人材がいません。国内だけを見ていれば、年収1億円の報酬は高く見えても、アメリカのCEOは100億円以上をもらっている人はざらにいます。日本を再活性化するためには、そういう人たちを雇う必要があるならば、いくら出してもいい。それで生み出された成果やイノベーションのほうが大事だというのが、本当に理解力のある人の発言だと思います。金額が高いかどうかだけに囚われているのは、世間受け狙いと個人的大衆迎合的妬み以外の何物でもなく、それでは低位安定しか望めません。収入がたとえ年間300万円でも充実した人生を求める人と、お金は多いほどいいと何百億円も年収をとる人の両方が共存できる社会にしていく必要があると思います。

オーナー経営者の給料

   昨年の日産自動車のカルロス・ゴーン氏の一件はショッキングな出来事でした。実は私は彼と同じ歳なので、ぜひとも不世出の経営者として頑張ってほしかったのですが、やはり長期権力は腐敗するようです。彼自身が意図的にしたことでないとしても、結果的に周囲の反感を買いまた、けしからんと思う人が多くなり、結果的に足元をすくわれたのかなという印象を持ちました。

   このニュースを聞いて思い出したのは、銀行時代のことです。私の取引先には売上が数百億円くらいの非上場のオーナー企業が多かったのです。そうした企業の社長たちの自宅はほとんどの場合、社宅となっていて、別荘も海外のリゾート施設も社宅扱いでした。休暇をとるときも出張扱い。配偶者の車代や旅費も社費として落とします。親族の結婚式や葬式も企業の公式行事として執り行います。取引先を接待するので、会社の経費で落ちるのは当たり前だろうという理屈がまかり通るのです。お手盛の給与は月給500万円が当たり前。月給1000万円という方も中にはいらっしゃいました。税金を払えば、あとは使途自由のお金となるので、みんなそういうやり方を取っていたのです。しかも、非上場なので情報を公開する必要もないので、かなり自由が効きます。そういう世界を見ていると、もちろん上場企業であること、報酬が桁違いであることなど、ゴーン氏の例と同列には語れない部分もありますが、経営者はいろいろと社用として便宜を図れるものだと勘違いするのも無理はないのかもしれないとも思うのです。

    長くトップの座に絶対権力者として君臨していると、そのうちにリスク感覚に隙ができてしまうものです。誰かにひっかけられることを想定したり、警戒したりすることもなかったのでしょう。そういうことも含めて、日常的なコンプライアンス感覚と、リスク管理は自分を守る上でも、会社を守る上でもとても大切だと思います。

 

 

非暴力主義

  海外で要人の暗殺やテロなどが起こると、まるで他人事で、日本とは関係ない出来事だと感じるかもしれません。しかし振り返ってみると、日本でも戦前は暗殺やテロといった暴力沙汰はかなり頻繁に起きていました。

 無血改革とされる明治維新を見ても、テロの連続です。盤石だった江戸幕府をテロで倒そうとしたのが薩摩藩と長州藩です。明治政府が発足すると、今度は薩長の内部で、西郷らが排除され西南の役で最後は自殺に追い込まれました。首相となった伊藤博文や犬養毅も暗殺され、軍部政権も反対派を一網打尽に逮捕し殺害していきました。これは、わずか70~80年前に起こった出来事です。

 すべて戦前の軍部がやったことで、自分たちとは違う、まったく無関係だと思うかもしれませんが、戦後も三菱重工爆破事件やオウム真理教のテロが起こっています。他国は暴力的でひどい国家と思うのではなく、私たちにもそういう血塗られた過去があり、歴史は繰り返す可能性があることを想定しておかないといけません。

 私がそのうち時間ができたらぜひ読んでみたいのが、ガンジーの非暴力主義に関する本です。何かに抗議したいと思ったときに、ほとんどの人は武器を手に戦いますが、非暴力主義を唱えていたガンジーは断食という策に出ました。1人の人間が断食したところで何の効果があるかと思うかもしれませんが、インドの内戦ではガンジーの行動が効を奏し、内戦をしていた両軍を和解へと導いたのです。

 ガンジーは無関心ではいられず、自分にできることは何かと考え、行動に出た。そういうところに、とても心惹かれます。「無関心」は今の時代において重要なテーマだと改めて思います。

 

 

無関心に気づく

  人間は1人で生まれ、1人で死んでいきます。いつかは死ぬと理屈ではわかっていても、たいていの人は、自分の死はまだ遠い先のことだと思っています。なぜなら、まだやりたいことがあるし、お金もまだ十分に稼いでいないし、いい恋人にも出会っていない。だから先だと、何の根拠もなく思っているのです。そして、自分の親兄弟、子ども、配偶者など近しい人の死に直面したときに初めて、自分がいずれ死ぬという事実を無視してきたこと、無関心だったことに気づくのです。

 マザー・テレサは「愛の反対は無関心だ」と言っていましたが、キリスト教の愛には、すべてを受け入れるという、愛欲よりも広い意味を持っています。すべてを受け入れ、理解することの反対が無関心だとすれば、無関心が広がっていくことは非常に問題です。

 幸いにも、近親者の死に触れ、いったん生死の問題に関心を持った人は、自分の生は何なのか、残された人生をどう生きるかを考えずにいられなくなります。死んだ人のために2倍生きよう、もっと社会的に意味のあることをしようと考え始め、そこで人生の意味が変わるのです。

 どんな人にとっても無関心領域はあるので、それに注意を向け、見たくなかったことを正面から見て、自分はどうするかを考えて、できることをやる。それが無関心から抜け出す唯一の方策です。みんながそういう作業を一斉にやれば、無関心、無視の領域が減っていくはずであり、そういうムーブメントが大きくなるといいと思っています。