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宗教的二元論と原理主義

    トランプ大統領の批判をよく耳にするのに、あれだけ票が集まるのはなぜなのか。メディアがネガティブな情報を発信することが多いだけで、普通のアメリカ人はそんなに悪く思っていないとすれば、メディアにバイアスがかかっているというトランプ大統領の糾弾は、あながち嘘ではないのかもしれません。あるいは、建前では批判しつつも、本音では賛成だという人が多いことも考えられます。そういう本音と建て前は、誰しもみんな持っているものです。

 ふと思い出したのが、中世ヨーロッパで起こった宗教革命です。マルチン・ルターがなぜ「聖書に帰れ」と言ったかというと、伝統教学のカソリックが本音と建て前を使い分ける二元論に立って、神の救いを免罪符として売り始めたからです。免罪符はいわばお守りのようなもので、祈祷してお守りを買った人は救われるというわけです。

 この背景にあったのは、教会の財政難でした。それまで教会は大きな土地を保有する領主であり、周りの住民は所得の10分の1を税金として教会に納めていました。それが、王権分立や共和制政府の登場によって、教会など宗教的活動に対する集金システムが崩れ、教会運営が経済的に立ち行かなくなったのです。そこで、免罪符を売って良い、それでみんなが天国に行けるとは、聖書のどこにも書かれていないけれど、背に腹は代えられないと、二元論をとったのです。こうしたやり方の行きつく先は、破綻しかありません。

 その一方で、宗教的な一元論は大きなラディカリズムに結び付きます。多様性を認めず、一様でなければならない。この教え以外は一切認めないという、一種の独裁的な考え方に陥り、反対する人はすべて敵だから、抹殺すべきだという革命の論理になっていくのです。

 本音と建前を内包する二元論と、あるべき姿を追求する一元論の間で、どこに着地点を見出すのか。これには現実の痛みを伴った知的作業が求められますが、それを厭わずにやっていかないと、我々は生き残っていけないようにも思います。

 

 

 

 

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