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デジタル・トランスフォーメーション

最近、デジタル・トランスフォーメーションという言葉をよく聞きますが、なんだか底が浅いように感じます。というのは、デジタル化しないと、生き残れないというほど追い込まれていませんし、今のシステムで何が悪いのかと、どこかで思っている人が多いのだと思います。

仮に、300人でやっていた仕事をたった1人でやれるなら、改革と言えますが、300人を100人にするくらいでは改善の域は出ません。本当にデジタル・トランスフォーメーションを行うなら、余った299人をどうするのか。解雇するのか、配置換えなのか。その問題を片付けない限り、先には進めません。

デジタルの世界に乗らない部分をどうするかという問題もあります。たとえば、人間の感情はどうなのかは、気になる所です。最近は、感情の動きをどうデジタル化して計測するかという学問がずいぶん進み、人の感情認識もかなりデジタルで処理できるようになっているようです。

知人から聞いた話ですが、地方の売れない大きな書店の売上改善というテーマを請け負った方が、店内にデジタル機器を持ち込んで、来店客の感情や行動の解析をしたそうです。どこのコーナーの前で人が本を手に取り、いい表情になって、購入に至るのか。たくさんのカメラで撮った画像を、画像認識にかけて分析し、その結果を売り場改善に役立てたのです。すると、売上が30%近く向上したそうです。とはいえ、機械の導入だけで3000万円も4000万円ものコストがかかったらしいですが。

デジタル処理で成果を出せるのは、あくまでも目的が明確に定まり、どんなデータを取ってどう活用するかというプロセスがはっきりしているからです。ただ漫然とカメラで画像をとっても分析はできません。そこが、デジタル・トランスフォーメーションの陥穽だと思います。

 


 

士は己を知る者の為に死す

三国志か何かに、こんな逸話が出てきます。

ある戦いで、兵士が負傷し、傷口が膿んできます。すると、大将がやってきて口で膿を吸い出してくれたのです。すると、その兵士は感激し、また突撃に出ていきます。その様子を傍で見ていた老人は大将に「あなたは罪な人だ」とつぶやきます。これでまた人1人の命が失われたではないか、と。

「士は己を知る者の為に死す」と言われますが、「君はよくやっているね」と褒められたり、ねぎらいの言葉をかけてもらったりすれば、みんな気持ちがすっとします。そして、自分のことをわかってくれる人のためには、死んでもいいと思うのです。

日本の会社も軍隊組織みたいなもので、上司に認められるためには、死をも厭わずに戦うようなところがあります。実際に、組織で不祥事が起こると、自殺に追い込まれる人も出てしまうのは、本当に気の毒なことです。本来であれば「上司の命令に従っただけです」と言って、誰かをかばったり、責任を一身に背負う必要などありません。しかし、そんなことをいえば、自分が怒られる、組織に迷惑をかけると思ってしまう。これは、承認欲求の裏返しとも言えます。

特に大手企業では、承認欲求がモチベーションという人が多く見られます。承認欲求が原動力になっていると、人から評価されないと、自分の価値がないという考え方になります。すると、評価されるなら何でもする。逆に、自分の価値はどうでもいい、という考え方になっていくのです。相手は相手、会社は会社、自分は自分であって、まったく違うものです。会社がつぶれたからといって、自分の価値がなくなるわけではありません。そう言う割り切り方も必要だと思います。

 

 

 

 

雅楽は宮中だけではない

浄土真宗本願寺派では、親鸞聖人の月命日、報恩講、降誕会(ごうたんえ)などの正式な法要には、必ず雅楽の演奏がつくのが特徴です。雅楽というと、神道や宮中で演奏されるものというイメージがあるかもしれませんが、もともと仏教が先です。天台宗や真言宗に声明や音楽がついていたので、そこから採り入れられたのでしょう。

本願寺の法要で雅楽を演奏するのは、お坊さんです。本山に雅楽の学校があり、声明と、雅楽で使う(しょう)、篳篥(ひちりき)、龍笛などの楽器演奏を学びます。築地本願寺での雅楽の指導には宮内庁の先生が当たるので、天皇陛下がお聴きになるのと同じ流儀です。そして、資格試験に受かると「特別法務員」という資格が与えられ、法要では雅楽も担当するようになります。築地本願寺の職員のうち、僧侶の資格を持つ40人くらいは、何らかの楽器を演奏できます。また、教区のお寺のお坊さんが毎週金曜日に集まって練習する雅楽会というものがあり、定期的に腕を磨いているのです。

ちなみに、宮内庁雅楽部の先生たちは洋楽器も学ぶそうで、迎賓館で来賓を迎える時には、楽師は篳篥(ひちりき)などの和楽器からバイオリンなどの洋楽器に変えて、弦楽四重唱なども演奏するのだとか。何とも多才です。

音楽の世界のことはよくわかりませんが、雅楽でも西洋音楽でも、上手な人の演奏は本当に心を動かされるなと感じます。そして、音楽は死ぬまで楽しめるものです。要介護4や5となって、自分の名前も言えない方でも、昔の童謡などは一緒に歌えるのを聞いてびっくりしました。幼児期に刷り込まれ、身体に染み込んでいるものは、最後まで記憶に残るのでしょう。

 


 

最近の自然災害について思うこと

昨年末に、広島高等裁判所から、四国電力の伊方発電所の運転差し止めの判決が出ました。その大いなる根拠は、「9万年前の阿蘇山のカルデラ爆発を前提にすると、安全ではない」というもの。こうした決定的な火山の大爆発が起こると、大空が真っ黒に曇り、すべてのものに灰が覆いかぶさり、急激に温度が低下し、ほとんどのものが死に絶えます。実際に6500万年前に、ユカタン半島沖に落ちた隕石によって恐竜が絶命しましたが、そういう大災害は必ず起こります。

9万年も前というと壮大な話のようですが、地球の歴史から見れば、いつ起こってもおかしくありません。しかも、日本は火山の国で、あちこちで温泉が湧き出てきます。それだけマグマが地表近くにある場所なので、どこで災害が起きても文句は言えないのです。そう考えてみると、日本人の忘れっぽさは、そういう天変地異の多さから来ているのだと思えてなりません。いつまでも天を恨み、地を恨んでいたら、やっていられない。だから、すぐに水に流してしまうのでしょう。

日本で安全な場所を探すのは難しいのですが、外国人に言わせると、「それなら逃げ出せばいい」。ですが、なぜか私も含めて、他の国に移住しようという発想を持つ日本人は周囲に見当たりません。これは国民性なのでしょうか。中国の人などは、自分は中国人だが、国籍はカナダだというように考えると思うのですが、日本を離れたら、日本人ではなくなってしまうような感覚を持ってしまうのは、不思議なことです。

いずれにせよ、将来に漠然とした不安があるときこそ、宗教などの教えが心に染みます。教えを体感しようと努力を繰り返しているうちに、だんだんと近づき、恐怖や恐れを持つことなく安心して暮らせるようになる。それが、本当の幸せというものかもしれないと思ったりします。

 

 

 

 

承認欲求の呪縛

承認欲求は、人間にとって逃れられないものだと思います。

幼い時に、祖父母や両親などから「これをしたらダメよ」「こうやれば、偉くなれる」と言われたことが頭に残っていて、丸飲みしているつもりはなくても、無意識のうちにその方向に行ってしまう。それは、祖父母や両親に褒められたい、よくやったと言ってほしいという、承認欲求の1つの表れです。

特に、自分が本当に向いているかどうかわからないことに進もうとするとき、引きずり戻されるような引力となって残ります。それをある程度、振りほどいて、その人たちに認められるから、自分の価値があるのではない。言われたことを受け取るけれど、その通りにしないからといって、自分に価値がないわけではない。自分は自分で価値があるのだ。そう絶えず言い聞かせないと、自分の立ち位置が不安定になります。そこが崩れると、アイデンティティが失われて、心の病になってしまうのです。現代人の病の大きな要素は、他人からの要求と、自分の価値をうまく分けられないからだと思います。

自分は自分だと割り切るのは良くない、世の中に背を向けていることだと、私たちは教え込まれてきました。たとえば、人に迷惑をかけない。後ろを通る人のために道を開ける。他人に親切にする。恵まれない人たちに施しをするのは、良い行いだと教わります。もちろんそれは善い行いではあるのですが、その背景に「そうすれば、ほめられる」「こうすれば格好いいと思われる」という気持ちが隠されているとしたら、承認欲求による行動であって、純粋に自分が望んで行っていることではありません。逆に言うと、「自分が」というのが主語に来ない限り、誰かに認めてもらえるという承認欲求の罠(非自発的な選択肢)に引きずられてしまうのです。