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独立自尊はどこにいったのか

先日、慶應大学商学部のOBの実業家や起業家が講師となって授業をする「21世紀の実学」という講座に呼ばれ、日吉の大学2年の学生に話をしてきました。講義が終わると、驚いたことに質問者がずらりと列をなし、次の授業に食い込みそうになったので引き続き教員控室で人生相談にのることとなりました。

 何が学生の心に響いたのだろうかと思って感想文を見たのですが、まず、失敗談が新鮮だったとありました。ほかの登壇者は通常、「こんなことをやって成功した」という話をしますが、私の場合、国立大医学部受験で二浪してやむなく経済学部に入学した話などをしたので、同じような経験を持つ学生は共感してくれたのでしょう。なかには、受験時の挫折感を今でも引きずり、自分の中で整理がつかないと悩みを抱えている学生もいました。

 社会に出るとわかることですが、もはや東大慶應卒だからといって尊重される時代ではないし、一流大学を出ても会社で成功するとは限りません。受験のときの偏差値の差など、たいしたことありません。駄目だったことはすっぱり諦めて、次の道を探す。そういう割り切りを持つことが大切です

 もう1つ学生が反応したのが、「承認欲求を捨てよう」というメッセージでした。親や先生、周りの人たちから認められたいから、応えようと頑張るのではなく、誰がどう思ってもいいではないか。褒められることを動機として行動するのは、やめようと言ったところ、「そんなことをしてもいいのか」という驚きの声が多かったのです。

 慶應大学は、誰が何と言おうと自分の主張を貫く「独立自尊」をモットーとしてきたはずですが、今は誰もそんなことを教えないのでしょう。独立自尊は社会や会社にとって望ましくないと、暗黙のうちに思っているだけで、実態は案外違うのではないかと思ったりもします。認められなくても、これが正しいと思う価値観や倫理観が自分の中にあれば、それに忠実に生きればいい。そういう生き方をしても構わないと、若者も中高年も思うようになれば、だいぶ世の中が変わるのではないかと思います。

 

 

 

 

外国人就労者の受け入れ

外国人就労者の受け入れ政策が政府で議論されていますが、非常に片手間な印象を受けます。来日すれば、永住する人が増えるのは当たり前なので、今後どのようにスラム街をつくらずにやっていくか。実際に、イギリスでブレグジットになったのも、アメリカでトランプ大統領が出てきたのも、移民が増えて既存の住人を圧迫するようになったからです。日本人とうまく暮らしていけるよう、子供だけでなく、大人の文化同化のための教育プログラムや融合プログラムをトータルに考えないと、将来的に様々な問題が起こることは諸外国の例を見ても明らかです。

 残念ながら、日本はかなり差別意識が強い国だと思います。たとえば、中国系や韓国系の人は長年日本に住み、日本国籍を持っていても、苗字が違うからと差別を受けます。同じ日本人同士でも、方言が違うだけで排除されます。私は東京生まれの東京育ちですが、銀行に入って最初に大阪に赴任したときには、もちろんいじめられ関西弁を自由に話せるようなるまでかなり苦労しました。

 移民を受け入れるなら、家族をどう同化させるかという政策も必要です。日本の義務教育制度では、日本に住む外国人の子どもを受け入れなくてはならないのですが、クラスの中に日本語を話せない子どもが増えると、学校の先生は満足に教育が行えず、困っているという話を聞きます。教育委員会がせめて日常用語の日本語講座くらいは準備すべきですが、そういう対応はとられていません。翻ってイギリスを見ると、かなり片田舎に行っても、外国人のための英語教室が無料で行われています。

 移民が来れば犯罪が増えるといった目につく事象だけを心配するのではなく、イギリスのように同化の仕組みを各都道府県で整備するように法律を整備したり、政府が補助金を出すなど、トータルの戦略として外国人就労者の問題を考えていく必要があると思います。

 

 

宗教的二元論と原理主義

    トランプ大統領の批判をよく耳にするのに、あれだけ票が集まるのはなぜなのか。メディアがネガティブな情報を発信することが多いだけで、普通のアメリカ人はそんなに悪く思っていないとすれば、メディアにバイアスがかかっているというトランプ大統領の糾弾は、あながち嘘ではないのかもしれません。あるいは、建前では批判しつつも、本音では賛成だという人が多いことも考えられます。そういう本音と建て前は、誰しもみんな持っているものです。

 ふと思い出したのが、中世ヨーロッパで起こった宗教革命です。マルチン・ルターがなぜ「聖書に帰れ」と言ったかというと、伝統教学のカソリックが本音と建て前を使い分ける二元論に立って、神の救いを免罪符として売り始めたからです。免罪符はいわばお守りのようなもので、祈祷してお守りを買った人は救われるというわけです。

 この背景にあったのは、教会の財政難でした。それまで教会は大きな土地を保有する領主であり、周りの住民は所得の10分の1を税金として教会に納めていました。それが、王権分立や共和制政府の登場によって、教会など宗教的活動に対する集金システムが崩れ、教会運営が経済的に立ち行かなくなったのです。そこで、免罪符を売って良い、それでみんなが天国に行けるとは、聖書のどこにも書かれていないけれど、背に腹は代えられないと、二元論をとったのです。こうしたやり方の行きつく先は、破綻しかありません。

 その一方で、宗教的な一元論は大きなラディカリズムに結び付きます。多様性を認めず、一様でなければならない。この教え以外は一切認めないという、一種の独裁的な考え方に陥り、反対する人はすべて敵だから、抹殺すべきだという革命の論理になっていくのです。

 本音と建前を内包する二元論と、あるべき姿を追求する一元論の間で、どこに着地点を見出すのか。これには現実の痛みを伴った知的作業が求められますが、それを厭わずにやっていかないと、我々は生き残っていけないようにも思います。

 

 

 

 

理想を説く姿勢

   11月に行われたアメリカの中間選挙のときに、テキサス州上院議員選で民主党候補者のベト・オルークは、「もう個人攻撃はやめよう。誰かのためや自分のためではない。テキサスのため、国のため、私たちみんなのために、誇りと尊厳をもって、いい政治をしようではないか」と訴えかけたところ、とても共感を呼んだそうです。こうしたストレートな演説は本当に胸に染みます。

 選挙結果はというと、共和党の現職上院議員のテッド・クルーズに肉薄しつつも、残念ながらも敗北しました。一方的に分裂を煽るトランプ大統領の手法が功を奏して、上院は共和党が多数派を占める結果となりましたが、それでも理想を掲げ、声を上げることは大事だと思います。

 何かがおかしいと思っても、私たちは見て見ぬふりをしがちです。たとえば、日本で今、起こっている社会問題はすべて人口問題に端を発しているものです。社会保障費が増額して誰が負担すればいいかという問題が起こることも、年金が足りなくなることも、労働者が不足することも、私が大学生だった時代から明らかで、学者が指摘し、政府のレポートにも書かれてきたことです。それを知りながら、誰も手を打たずにきただけなのです。

 世間に抗おうとも、誰も受け入れてくれなくても、問題に気づいた人がその時点で、正しいことを訴え続ける。そうすれば、何とかしたいと思いながら、行動ができていない人々の共感や支持を集め、変化の兆しになっていくのではないでしょうか。

 ところで、オルーク氏は「第2のオバマ」とも言われているそうですが、きっと何年後かに大統領候補者として登場してくるかもしれないので、今後も注目したいと思っています。

 

幸せな生き方とは

人間とは、逆説的な存在だと思います。たとえば、立身出世して、お金を稼いで、人々に尊敬されて、一見すると大成功していても、今度は、お金がなくなるのではないか、騙されるのではないかと、いろいろな不安にさいなまされて、駆り立てられるように衝動的な行動をとってしまう。そこに幸せかがあるかというと、決して幸せではありません。

 そもそも思い通りにならないものを、思うようにしたいから、煩悩や執着が生まれ、それがすべての「苦」の原因となると、お釈迦様は説きます。だから、思うようにしたいではなく、物事をあるがままに受け止められれば、悟りの境地に達するのですが、人間にはそれができないのです。あるがままではなく、良い、悪い、幸せ、不幸せ、好き、嫌いなど必ず解釈をしてしまう。だからと言って、解釈しなければいいかというと、それはそれで問題です。たとえば脳の中枢が傷つき、外界の物事の解釈ができなくなると、意欲を失い、ただ生きていくだけの無味乾燥な存在になってしまうのです。

 では、大成功した後、その人がどのような身の処し方をすると、幸せに生きられるのでしょうか。お金というものは一定のレベルを超えると、お金がお金を生むようになり、使っても使いきれなくなります。そこで何をするのか。たとえば、大富豪になったビル・ゲイツは、全財産をビル&メリンダ財団に寄付して、そこで仕事をするという生き方を選びました。松下幸之助も自分の財産のほとんどをPHP研究所と松下政経塾に寄付して、教育や出版業などに投じました。自分のことよりも、世のため、人のため。そういうのも1つの良い生き方ではないかと思います。