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大前提は主体的に生きること

 自分の人生がなかなか良かったと最後の時に思えるように、自分の人生を成功させる条件の1つは、主体的に生きることだと思います。人生は思い通りにいきません。私自身も高校時代に描いていたキャリアは、医学部にいって精神科の医者になり病院を経営して、最後は日本医師会の会長になることだなどと思っていました。なぜ医師会会長かというと、高校時代に大先輩である武見太郎氏に会いに行って感化されたのです。武見氏は一般の開業医で、大きな病院ではなかったのですが、医師会会長でドンと呼ばれていました。ものすごい読書家で、抜群に頭がよく、しかも、政治家の顔を持っているのが印象的で、そういうのも悪くないなと思ったようです。

 そんな夢はさておき、結局、大学を卒業後、いろいろな人に会い様々な経験ができると思って三和銀行員となりました。後から見ると、この選択はキャリアとして悪くなかったと思います。最初の8年間が大阪勤務だったのは想定外でしたが、大阪商人として仕込まれ、物事を立案し、手を休まずに動かすことによって実行し、成果を出して、その次へ向かうというスタイルを身に着けることができました。これは、海外でも日本でも、どこでも通用しました。特に、銀行を辞めて、ヘッドハンターやコンサルタントになったときも自立できたのは、最初に大阪時代に身に着けたサバイバル能力のおかげだと思います。 

 その後、外資系企業を経て島本パートナーズの社長になり、苦しい時代が続きました。それでも路頭に迷うことなく、好きなことをやってきました。さらに仏教への知的好奇心が高じて通信教育の学校に学び卒業して得度しました。その後宗教法人の経営に携わるとは、思いもしませんでした。高校時代に思い描いたキャリアとは全く違うけれども、心のままに求めていったらこうなったという意味では、悪くないし、方向性もそれほど狂っていないと思います。

 

 

 

同級生のその後

 高校時代を卒業してから50年経ってみると、とんとん拍子でうまくいった人は、どこかで蹉跌を踏んでいることが多く、人生はわからないものだと思います。たとえば、途中までそこそこ遊んでいて、高3の1年間できっちり勉強して、現役で東大や国立の医学部に行った友人もいれば、大企業のトップや会社役員を経験する人もいるし、65歳で引退生活に入る人、早めにさっさと組織に見切りをつけてプロとして独立して楽しくやっている人などさまざまです。 

 ある同期の友人は、現役で東大に行き、大企業に入り、社長を4年間務めました。ところが、通常の改選期でもないのに社長から副会長へと異動。聞いてみると、前期の業績は悪くなかったのに、実力派の会長とそりがあわず、更迭されたとか。せっかく大企業のトップになれても、意に反して棚上げされたりするのですから、本当に何が幸せなのかわかりません。

 グロービス経営大学院などでは、キャリア戦略を立てて、計画的にスキルや経験を積めるように教えたりもしていますが、人生のキャリアはどこでどうなるかわからないので、絶対に計画通りにはなりません。ですが、何かをやろうとした過程で学びとったものは、自分のポータブルな(持って移動することができる)能力として残っていきます。失敗して左遷されたり、ボーナスを減らされたり、組織をやめざるを得なくなったとしても、それは真摯に向き合うことで自分の糧になり、どこかで役立つはず。その繰り返しなのかなと改めて思いました。

 

 

 

多様性を寛容な態度で受け止める

 開成高校で過ごした時代を振り返って、すごいと思うのは、生徒に対してかなりの自由や多様性を認め、自分のやりたいことを追及するのを邪魔しなかったところです。それが伝統なのかどうかはわかりませんが、運動会も文化祭もすべて生徒が自主的に委員会を組織して実施していました。予算だけ決まっていて、悪いことはしていけないと言われるだけで、先生方は本当にノータッチでした。 

 生徒会の活動も同様でした。役員の中に全学連の先輩の影響を受けて新左翼っぽい言動をする生徒がいて、わざわざ新左翼の根城があった池袋千早町の印刷屋まで行って学校新聞をつくるなど、好き放題やっていました。紙面上で「校長先生、おおいに語る」と題して校長批判をしたときには、担任の先生がさすがにまずいのではないかと心配しましたが、当の校長先生からは一言も怒られませんでした。 

 高校2年生の時に、文化祭のパンフレットづくりを担当しました。開成高校出身の有名人の先輩にエッセイを書いてもらおうと考え、俳優の中村伸郎さん、映画評論家の荻昌弘さん、スポーツ評論家の虫明亜呂無さんの3人にお願いしました。中村さんのエッセイは「今の開成はけしからん。自分には娘しかいないが、もしも息子がいたら、今の開成には絶対に入れない」という辛口の内容でした。

 生意気盛りの私は、その文化祭のパンフレットをありとあらゆるマスコミに送りました。すると、何社かが取り上げてくれました。朝日新聞全国版の教育欄のコラムにも載ったのですが、よりによって「中村伸郎氏が今の開成には息子は入れないと書いている」とあったのです。全国版ですから、反響は大きかったはずですが、誰からも何の注意もされませんでした。また生徒が勝手なことやっているね、くらいでおしまい。寛容で多様性を重んじる学校で学べたのはよかったなと思います。

 

 

 

 

 

能舞台の緊張感が好きだった

 高校時代の経験として、もう1つ思い出したのが、古文の羽田昶先生です。みんなからそれほど人気のある先生ではなかったのですが、何を隠そう、能や狂言の造詣が深く、「能楽タイムズ」によく劇評を書いていました。

 ある時、フランスの哲学者であるジャン=ポール・サルトルとモーヌ・ド・ボーヴォワールが来日し、能舞台を鑑賞した話をしてくれました。ボーヴォワールは途中からずっと熟睡。ところが、終了後のインタビューでは、「いやあ、素晴らしかった」と絶賛したとか。それで、こいつは嘘つきだと思ったというエピソードが、とても印象に残っています。 

 おそらく、そういう話が面白くて興味を持ったのでしょう。私はなぜか羽田先生に近寄っていき、先生経由で一番安い学生用チケットを買ってもらい、今はもうない水道橋の能楽堂に1人でせっせと通いました。能と狂言、そこから影響されて国立劇場で文楽(人形浄瑠璃)や歌舞伎も観るようになりました。

 狂言はわかりやすく、太郎冠者がどうこうという話をそのまま楽しめます。文楽もプログラムの中に床本がはさんであるので、それを読みながら見ていけば問題ありません。ところが、能だけはストーリーがわかっていないと、どこが見どころなのか、さっぱりわからないのです。当時はたしか「能百番」という解説書を読み、あらすじを予習しておくと、かろうじてついていくことができました。

 今にして思うと、ませガキで、だいぶ背伸びしていたと思いますが、こうした伝統芸能の舞台にはどこか心魅かれるものがありました。歌舞伎の場合、客席がざわざわしていますが、文楽では、みんな太夫の話を真剣に聞き入ります。そして、何といっても極度の緊張空間となるのが、能の舞台です。観客は咳払いもせずに、一心に舞台を観ます。あの異様なまでに張り詰めた劇場の感覚がなぜか気に入っていました。

 

 

漢文を翻訳する日本人の知恵

 高校時代を振り返ったのをきっかけに、山本七平の本を読み直そうと思い、最近『日本人とは何か』という上下巻の厚い本を読み始めました。当時はそんなに面白い本だと思わなかったのですが、博覧強記の山本七平の分析は興味深く、改めて気づかされることがありました。

 たとえば、日本人が日本語をつくってきた過程について。呉漢の時代に漢文が輸入されてきたとき、日本人は漢文に返り点やレ点をつけて翻訳し、日本語として読み下したのですが、これはユニークなやり方だと、山本七平は指摘します。 

 異なる言語間では、ある概念にぴったり当てはまる訳語がない場合がよくあります。このときに楽なのは、あえて自国語に翻訳せず、英語なら英語のままで取り入れるやり方です。その結果、高等教育になると、英語でしか学べないという国もあります。それに対して、日本では、カタカナで送り仮名をつけるなど工夫しながら、漢文を読み下し、内容を消化して、日本語で学べるようにしてきたのです。これは一種の発明であり、とてつもない知恵と言えそうです。

 ところで、宗教という言葉が登場したのは、明治時代以降のこと。西周がreligionの訳語として当てた言葉です。それ以前には宗教という言葉はなく、信仰があっただけ。宗教として整理されたのは明治以降、わずか150年にすぎないのです。さらに言うと、仏教はもともとサンスクリット語で書かれたものが3~4世紀に漢語や呉の言葉に翻訳されて、それが朝鮮半島を通じて、日本に漢文経典として入ってきました。仏教も思想も日本人流に読み下して今日があるのかと思うと、感慨深いものがあります。