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ペンリンインターナショナルとは

保身の構造

 財務省の一件以降、自衛隊や文科省などでも、なかったはずの文書が次々と見つかる現象を誘発しました。「破棄した」と言いながらも、みんなしっかりと記録を残しておく。そういうマインドセットは、かつて銀行で不良債権案件を償却処理したことのある身として、担当者の気持ちは手に取るようにわかります。

  不祥事などが起こり、「これは倫理的な問題だな」と思いながらも、上司に命じられて、やらざるを得ない状況に追い込まれる。そんな時には、自分の身を守るために、何かあったときのために、破棄すべきものも取っておこうと思うものです。特に、予定調和で求心力の働く組織ではなくなった今は、各個人が自分の城を守らないといけないので、なおさらでしょう。

 お上から押し付けられた嘘八百があり、ある程度は仕方ないと目をつぶりながら、お互いにやったりやられたりする。そのうちに、ある一線を越えて、嘘が明るみに出る。すると面白いことに、今度は組織サイドで、自分たちの組織を守ろうという論理が働きます。申し訳ないけれど、関係したトップに責任をかぶってもらい、思い切って膿を出しまおう。そこで禊(みそぎ)をして、残った人で出直そうという自浄作業が起こるのです。

  その過程で、自殺者が出てしまうのは、本当に気の毒なことです。秘密を抱え込んでいることが多く、隠された真実があることを語らずに語っているのです。これは昔から嫌と言うほど繰り返されてきました。その意味で、本当に世の中は変わらないなと思います。

 


 

予定調和が生み出す求心力

  森友学園や加計学園、財務省理財局の文書改ざん、日本大学アメリカンフットボール部などのニュースがあれこれと報じられました。それぞれ異なるところはあるものの、組織の内実を示したという意味では、非常に近似している気がします。嘘でも何でも、上が「こうだと」決めたことは下に通るはずだと思っていたのに、内部告発などで「事実はそうではない」と下から反論が出てきて、虚像が暴かれ崩れていく構図です。

  少し前の日本の組織社会では、上が言うことは絶対だという考え方がまかり通っていたのに、なぜ今は違うのでしょうか。

  おそらく今は組織には、告発をやめようと思い留まるような求心力が失われたからだと思います。たとえば、中央省庁はごく少数のキャリアと大多数のノンキャリアで成り立っている世界です。キャリアは互いに熾烈な競争をして選別され、その中の最後の1人が次官になるという暗黙のルールがありました。ノンキャリも優秀であれば「天上がり」(たとえば、地方採用の人でも本省や海外に行くなど)の機会が与えられ、それなりの処遇をされる。意外に実力主義の社会だったのです。そういう環境下で、キャリアの中であの人が一番だから次官にしよう、みんなで盛り立てようという予定調和が成り立っていました。

  こうした状況において、ランダムに出てくる異常値は、超長期の予定調和を保とうとする力が働き、帳消しになります。たとえば、ここは申し訳ないけれど、彼に責任をとってもらおう。だけど、あとの面倒を見るといった案配です。そうなると告発はやめて、組織に忠誠を尽くそうという文化が維持されるわけです。ところが今は、財務省でさえ、そういう求心力が失われてしまったように感じられます。

 

 

 

6兆円を集めきる

日本企業が海外企業を買収する事例が増えてきましたが、少し前に武田薬品工業が6兆円の買収に乗り出したニュースが報じられたとき、以前、その分野の仕事をしてきた私としては、非常に感慨深いものがありました。日本企業でもそれだけの金額を集められることを証明したなと思ったのです。

 いいものを安く買うことは、基本的に誰にでもできることです。エクイティではなく、レバレッジかけてやるので、規模の小さな企業が大企業を買うことは可能です。とはいえ、6兆円のディールをまとめられるスキームや信用力は、そうそう持てるものではありません。武田では外国人経営者のクリストフ・ウェバー氏を登用し、おそらくCFOも外国人だったのでしょう。彼らの戦略的発想で、複数の買収候補会社の中からシャイアーというアイルランドの会社に決め、シンジケーションをつくる。少なくとも、相手に話を持ち掛けてオファーを出す段階で、その準備ができていないと買収話は成立しません。そこまでマネジメントできるのはたいしたものですし、日本企業が学ぶべきところだと思います。 

 テイクオーバー(企業取得)を「悪」とするのは、高度成長期で安定雇用が確保され、人口が増えていく時代において成り立つ考え方です。人口が減少しグローバル競争になっている時代に、テイクオーバーが悪だとすれば、会社も社員も成長しません。それは株主、顧客、国のためにもならないのです。たとえば、持株が、現在の株価の1.5倍の値段がつくときに敵対的買収だからと言って持株を売らないとすれば、株主から背任で訴えられる時代になりつつあるのだと思います。

 

 

 

 

檀家制度の崩壊

   先週、グロービスの懇親会で話をした学生が、こんな話をしてくれました。実家は寺の総代(檀家の代表)で、何々家がいくら寄付するという固定化された制度になっている。かなりの負担を求められるが、父親は退職金の一部を寄付に当てた。父はその土地で商売をしていたので、お寺との関係も近かったが、東京に出て田舎に戻るつもりのない自分とすれば、もはやそんな負担は耐えられない。いずれは整理して、墓じまいをしなくてはならないだろう、と。

 その話を聞きながら、私が感じたのは、家族制度の崩壊が熱心な檀家さんを失う大きな原因だということです。これまでのお寺の檀家制度の前提となってきたのは、古い家族制度です。家族は親子世代が同居し、親が職人なら子供も職人、親が農家なら子供も農家というように、親の職業を子供が継ぐことが基本でした。それが産業構造の転換とともに崩れ、親が農家でも子供は会社員や医者になったりするようになりました。収入やステータスの高い職業に就くのはいいことだと思うかもしれませんが、親の後を継いで同じ土地に住み続けなくなる。核家族化と個人の世界になっているということです。そして、それが檀家制度の崩壊につながっていくのです。

 核家族で個の世界になった今、新たな状況に応えていかない限り、既存宗教は滅びていくだけでしょう。個人の世界で宗教界がサバイバルするには、個人に向き合わなくてはならないし、個人は多様なので、従来からのような一律のサービスでは通用しません。お寺を支える仕組みについて、これまでとは概念を大きく変えないといけないと切実に感じます。

 

 

 

 

宗教が果たすべきジョブは何か

   前回、クリステンセンの「ジョブ理論」を取り上げましたが、勉強会をしながら私は、宗教界におけるジョブは何だろうかと考えていました。私たちが宗教と接する機会は、法事やお墓参りなどかなり限られています。そこで求められているのは、生前の安心や安らぎを提供することではないかと思うのです。

 築地本願寺では最近、敷地内に合同墓を設けましたが、女性の問い合わせが多いことには驚かされます。配偶者に先立たれて1人になってしまった。子どもや親族も近くに住んでいない。せっかくお墓を用意しても、お骨をどう運ぶのかが心配だ。諸々の手続きはだれがやってくれるのだろうか。そんな切実な悩みをお持ちです。

 こうした方々が求めているのは、お墓そのものではなく、その先にある安らぎ、安心、心豊かさです。だから、人生サポートサービスを充実させて、生前の安心をお届けするのが、仏教教団の役目ではないだろうか。そんな想いを強めるとともに、究極的には、そういう安らぎや安心をお届けする手段が、信仰の世界なのかもしれないと、最近思ったりもします。

 伝統仏教の世界では、お寺のミッションは教義を伝えることだとする考え方が主流なので、こんなことを言うと、関係者は驚くことでしょう。しかし、いくら教えを説いても、それが届く人と届かない人に分かれます。その人にとって切実なジョブを解決するものでない限り、どれほど素晴らしい教えでも心には響かないのです。何かあったときに、何でも相談することのできる、頼りがいのある場になることが、お寺が生き残っていくために必要だと私は思っています。